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photo: 烏賀陽弘道

photo: Alexander Danadoev

河崎純

作曲、演出、コントラバス


1975年生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。コントラバスを齋藤徹、吉沢元治に師事。主に舞台作品の音楽監督、構成、委嘱作品の作曲のほか主宰、参加アンサンブル多数。


[舞台音楽家、演出家として]

演劇・ダンス・音楽劇を中心にこれまで70本以上の舞台作品の音楽監督、作曲、演奏を手掛ける。歌、声の表現、朗読、演劇、コンテンポラリーダンス、伝統芸能の要素を用いた詩劇、音楽劇スタイルの舞台作品の作、構成、演出もおこなう。舞台芸術で音楽を担当した主な作品に西川千麓「カミュ・クローデル」、Port B「ブレヒト演劇祭の約1時間20分」、静岡県舞台芸術センター(SPAC)「大人と子供によるハムレットマシーン」、江戸糸あやつり人形座「マダム・エドワルダ」など。ユニット普通劇場、企画朗読者 in Kawaguchi 音楽監督も務める。2007年劇場シアターXと打落水狗で詩と音楽の「詩の通路」ゼミ、公演を企画、進行。2015年、シアターX音楽詩劇研究所主宰、講師としてシアターX タデウシュ・カントール生誕100年企画にて「捨て子たち 星たち」「終わりはいつも終わらないうちに終わっていく」の2作品を演出、作曲。


[海外での活動]

活動は、主に東京のほか日本各地、海外での演奏。モスクワで発表した「砂の舞台」では構成、演出、音楽を担当し、ロシア人演奏家、ダンサーと共演。国際交流基金主催日本トルコ現代音楽公演「sound migration」に参加。2011年よりトルコの振付家アイディン・ティキャルと「db-ll-base」sound,body and instrumentで楽器奏者の身体性を追求し、イスタンブール、東京などで公演。2013年にはドイツ、ドレスデンシンフォニカーの新作音楽劇「デデコルクト」にソリストとして招へいされ、中央アジア伝統楽器奏者とともにベルリンでの共同作業。海外公演の際にはワークショップ、レクチャーも行う。2015年にはバスクの詩人、小説家キルメン・ウリベとコラボレーション。



[コントラバス奏者として]

演奏家としても、自作、即興、編曲による無伴奏ソロのほか、様々な形態のアンサンブルで演奏。1997年よりミュージックグループ「ダた」に参加。1996-2001までバンド「マリア観音」にてライヴツアーCD製作。ヴォーカリスト柴田暦とのデュオ「uni-marca」、即興音楽アソシエーション「EXIAS-J」、作曲家今井次郎、国広和毅との「aujourd'hui il fait beau」、ロシアアウトカーストの唄を歌う歌手石橋幸コンサート「私の庭」、トリスタン・ホンジンガー・ストリングカルテットなどでも活動。 録音はソロ作「左岸/右岸」、「ビオロギア」他参加作品多数。



[主な演出作品]

・「砂の舞台」(ダンス=アリーナ・ミハイロワ、コントラバス=ウラジミール・ボルコフ、トランペット=アントン・シラエフ)発表 国際交流基金モスクワ主催 2010


・いまからここで7「into soghomon soghomonyan」(オシップ・マンデリシュターム「アルメニア詩編」より)

ゲスト:セルゲイ・レートフ


・河崎純ダンスワークショップ公演「アウステルリッツフラグメンツ あるいは世の終わりのための四重奏曲」

(原作:W・Gゼーバルト パウル・ツェラン)作・構成・演出・音楽


・シアターX 音楽詩劇研究所

タデウシュ・カントール生誕100年企画にて

「捨て子たち星たち」「終わりはいつも終わらないうちに終わっていく」


・空中ヨガ 楽劇

空中劇「空に沈む 海に浮かぶ」

エアロヨガ/響きプロジェクト「深海と音」

音楽劇「西遊記 tenjik tenjik」2014-2015


・大学演習発表外部公演

「我牢獄」(北村透谷)、「春と修羅」(宮沢賢治)2012

「歌と朗読、パフォーマンスによる法廷劇 ブレヒトオラトリオ」(ブレヒト)2013

「交響曲第16番かもめ 悲劇」(チェホフ)2014

「橋づくしだよ! 歌合戦」(近松門左衛門、ホメロス、カフカ、ブレヒト)2015


・石橋幸 紀伊国屋ホール「僕の呼ぶ声」 

「アレクサンダー中央刑務所の亡霊たち」2014

「友よ、さすらへる者たちよ」2015



[主な音楽監督、作曲作品]

・商品劇場「マデュバイ小学校奪取」(作:H・シクスー 演出:大岡淳)

演劇祭アジアミーツアジア98出品 プロトシアター 1998

音楽作曲


・Port B「ブレヒト演劇祭の約1時間20分」(構成・演出:高山明)

ブレヒト演劇祭参加作品 シアターX 2003

音楽監督、作曲(アコーディオン、トロンボーン、薩摩琵琶、コントラバス)


・打落水狗「教訓の再読 音楽と朗読による花田清輝」

ブレヒト演劇祭参加作品 シアターX 2003

音楽、作曲


・西川千麗「カミュ・クローデル」

京都府民ホール、ローザンヌ、パリ公演 2004

作曲、ギター、尺八、コントラバス


・シアターコレクティブ「溺れる市民 東京のフェルディドルケ」 (演出:林未知 作:島田雅彦)

ゴンブロビッチ生誕100年祭出品 シアターX 2004

音楽監督、作曲(アルト、クラリネット、韓国打楽器、エレクトロニクス、 コントラバス)


・詩の通路プロデュース公演「あとからうまれるひとびとに 声の漬け物2 ブレヒト」

シアターX 2006

構成、作曲、音楽監督


・委嘱作曲 千麗舞わない夕、照明と音楽 ミヒャエルエ・エンデのモモ「円形劇場または広場にて」

京都千麗舞山荘 2007 メゾソプラノ、トランペット、コントラバス、打楽器


・「大人と子供のためのハムレットマシーン」(作:ハイナー・ミュラー 演出:大岡淳)

静岡舞台芸術センターSPAC 秋の芸術祭  2008

音楽監督


・ メガロシアター  創作オペラ「人形人間オペラ コード.テト」(演出:今井尋也) 2009

作曲、音楽監督


・ Y150横浜911シアタープロジェクト 市民参加オペラ「万歳 横浜」(演出:今井尋也)

赤レンガホール 2009

作曲、音楽監督


・Yプロジェクト音楽劇

「地獄門」2013、「続 地獄門」2014、「愛の門」2015



[教育活動、ワークショップ]

作曲、即興、音楽史、パフォーマンスなどのワークショップ、レクチャーもおこなっている。子供のためのワークショップも行うほか、2012年より立教大学 文学部 文学科 文芸・思想専修演習ゲストスピーカーとして講義、発表公演の作、演出、音楽。


・立教大学 発表

「人間の悲劇 no2」(金子光晴)

「歌と朗読、パフォーマンスによる法廷劇 ブレヒトオラトリオ」

「アウステルリッツ フラグメンツ」(W・Gゼーバルト原作)

「かもめ 悲劇」(チェホフ「かもめ 喜劇」、パウル・ツェランの詩による)

「旅芸人の帰還」(近松門左衛門「心中天網島」、ブルーノ・シュルツ)

「橋づくし」(三島由紀夫「橋づくし」、ベルトルト・ブレヒト「小市民の七つの大罪」による)

「橋づくしだよ! 歌合戦」(近松門左衛門、ホメロス、カフカ、ブレヒト)

「コニーアイランドベイビーズ」(河崎純)


https://www.youtube.com/playlist?list=PLjrFZml34pchxwN5vRjA2ceGesYP61kc-

音楽 詩 劇を「演じる」 沈黙の手前で


 音楽にならずに詩になった言葉がある。詩にならず言葉にもならなかった声が、身体がある。私は多くの舞台作品で音楽、歌をつくってきました。しかし、その歌がさまざまな状況で歌い継がれてゆことに喜びながら、反面、歌の不可能性を根底におき、その歌、音楽は永遠の沈黙の直前に歌われる「最後の歌」、奏でられる「最後の音楽」を想像してつくってきました。例えば前者はベルトルト・ブレヒトの言葉に作曲するときなど、後者はパウル・ツェランの詩に歌をつけるとき。ツェランの言葉はどれも「歌」とは遠い言葉、「歌えない」言葉にあえてかろうじて歌える旋律をつけること。


 言葉を虚ろに発し、発され、続けている現代にあって、そのことに多くの人々が自覚的でありながら、沈黙を選ぶことは出来ない。沈黙は死を意味するもの、と捉えるからだろうか。私たちは死の回避、生の存続のために無為な言葉を発し続けているのだろうか?詩人田村隆一に「言葉なんておぼえるんじゃなかった」という有名な詩句がある。たとえば「詩」の言葉とは現代において少なからず、言語の消滅の臨界点で歌われるものかもしれない。その歌い方、演じ方は様々だが。かつてのベケットが想起される。すべてが沈黙へと向かう。向こうから聴こえるざわめき。語り続け、歌い続けるのは向こう側からの声。私たちが演ずべきはやはり死者あるいは亡霊?夢幻能。W・Gゼーバルトの「アウステルリッツ」にみる死者の無言歌のメランコリー。それを声にすることは、死を演じることであろうか、あるいは死についての学習であろうか。カントールも想起される。そしてツェランの孤絶の語に、複数の歌や声が響いているとしたらそれは死者の声に他ならない。死劇か詩劇か。しかし永遠の沈黙を前にした最後の歌のようなイメージは捨てることが出来ませんでした。


 「音楽劇」というと、いまではオペラやミュージカルなどがまず思い浮かぶだろうか。オペラとは歌劇、世界中の数多ある音楽劇の中でももっとも洗練されたヨーロッパの音楽形式であり、教会の典礼劇、つまり聖書をベースにした宗教劇、宗教音楽、さらに宗教をはなれ「芸術作品」としてオペラという形は完成され、娯楽性をつよめオペレッタやミュージカルへと発展して行く。そこで歌手は役を「演じる」。つまり「演劇」である。やがて演じられる対象は神々やその神託から独立した個人のドラマへと変わり、20世紀の歌や音楽は、個人の表現、表明として、発信、受容されるようになる。民話や神話ではなく、個人の感覚や喜怒哀楽の共有、思想、社会参加への態度表明、それぞれの共感の集合、が音楽という「空間」を成立させてきた。そこでは「演じる」という行為はきわめて相反的な行為になる。とくに20世紀以降音楽というものは、劇的なものを排除することで、人々の間で共有されていたことを意味する。古来、芸能や宗教祭事では普通のことであった「演じる」というファクターを排除することで、音楽は「音楽」として独立性を獲得した。「演じる」という領域はドラマや消費にならされ、あるいは「演じない」という幻想の中に回収された。いま、音楽から「音楽」を解き放ち、音楽や歌の資源の水脈を探りあてつつ、私たちは、極私的ドキュメンタリーとドラマ(劇)とのはざまで、現在演ずるべきいかなる「役(割)」を探し、創出しうるだろうか。


河崎純

Director